上司の持つ“人間観”は、マネジメントに大きく影響を持つ。
A:「人は努力次第で変われる(だから、仕事に対してどこまでも努力すべき)」
B:「人はそう簡単には変わらない(だから、分不相応な仕事は部下に与えない)」
それぞれの上司ではマネジメントも自ずと変わってくる。
Aの努力万能幻想を持つ上司の下では、無限の努力を求められるだろう。
それについていける部下はいいだろう。そんな人いるのか知らんが。
そもそもこんな現実と乖離した幻想を抱いている時点で、その上司はまともではない。
仕事の指示もまともであると期待するのは無理というもの。
その奇天烈な指示に対して、部下がMAXの努力をしたところで、いかほど正しく成長できるのだろうか。
こんな新興宗教を信じている上司にあたったなら、自分の不運を嘆くしかない。
現実的な解決策としては、努力している風に見せる、というところだろうか。
ただし、メリットもある(はず)。
要は、“努力してさえいればいい”ので、頑張っているように見えれば、成果は問われない。
しかも、見所があるとして評価さえしてくれるのだ。
(何もできないのに評価が高いと、周りからは白い目で見られるだろうが…)
一方、Bの上司の下では、
仕事の指示自体は的確で、日々も落ち着いて暮らせていけるだろう。
というよりも、部下が落ち着いて処理できるタスクしか振っていないのだから、当然と言えば当然の帰結だ。
組織として、仕事を回していくと考えた場合、こちらの方がマネジメントとしてふさわしいのではないだろうか。
私が、その上司のさらに上役であったなら、部下にできるかどうかわからない努力をさせてその成果が未知数なもの状態よりも、
安定したアウトプットが定例で上がってくる方が、はるかにありがたい。
一見いいことづくめだが、部下としてはデメリットもある。
それは、自分でスキルアップする努力をしないといつまでも能力の成長が見込めない、ということだ。
人は、多かれ少なかれ仕事や部活などある程度強制力のある場所で、努力を求められて能力が伸びていく。
人間は、デフォルトでは安きに流れてしまう存在だからこそ、なにかの外圧が必要なのだ。
それでも私はBの上司の方がいいけれど。
何を、どこまで成長したいのか、またどのタイミングでどの程度頑張るのか、は自分で決めたい。
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