なにものにもなれないとしても、なにものかにはなろうとしたい

つまらないなぁ、と思う。
なにが?と言われれば、人生が。

いやまぁ別に、好きなもの食べればおいしいし、家族と出かければ楽しいし、仕事は安定してこなせているし、趣味だって細々とだけど続けられているし、最近ガチャ運もいいし(笑)、傍から見れば、刺激は少ないにしろ悪くはない人生を歩めているとは思います。
新卒で入社したクソブラック企業に勤めていたころに比べれば、まさに雲泥の差、天国と地獄くらいのイメージ。

とはいえ……

チャレンジの無い人生がこんなに緩く穏やかで幸せで、そしてつまらないものだとは。
別にまたベンチャー企業で昼夜問わず働きたいとか、起業したいとか、プロアスリートやプロゲーマーを目指したい、とか極端に振れたいわけではないけれども。
この穏やかな日常がだらだらと続いていくことに何の意味があるのか、自分の人生が終わる時に自己という“コレ”はなんなのか、ただゆっくり死に近づいているだけか。

なんだかなぁ。

それこそ、最近話題の日々食うや食わずの氷河期世代の人々からしたら、贅沢な悩みと言われるとは思う。
それでも、この「自分の可能性をゆっくり閉じていく」という日々は、肉体的のみならず精神的にも死にゆく状態な気がしてならない。

孔子先生曰く「四十にして惑わず」ということなので、逆説的に四十まではこうあーでもないこーでもないと惑う時期が続くということなのか……

冒頭でチャレンジが無い、と書いたけれど、別に何か新しいことを始めたいわけでも、仕事で過大な責任を取りたいわけでもない(ちゃんと報酬が乗ってくるならやってもいい。どうせいち社員に取れる責任なんてたかが知れてるのでやり得)。
新しいチャレンジというよりは、この日々過ごしている日常の時間を意味のあるものに、少なくとも自分がそう感じられるものに置き換えたい、という方がより正確に自分の気持ちを表している。
つまるところ今過ごしている日常がひどく平凡で、心も体も、自分の可能性を使い切れていない、ということなんだろう。

なにものにもなれないとしても、なにものかにはなろうとしたい。

家庭を持ち、幼子を抱えてもなお、どこまでいっても「自分の人生にとって、自分はどうなのか」という思いが優先する。
サイコパス感あるけれど、きっとしょうがないことなんだろうな。

と感じる次第です。

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